水を拓く

水を拓く

 愛知県でもっとも古い大規模農業用水は豊川の松原用水で、その開削時期は室町時代末期の1567年といわれています。

 その後、江戸時代になり、木曽川では宮田用水(1608年)と木津用水(1648年)が開削されました。また、愛知県の北西部にある入鹿池は1633 年に築造されたもので、その貯水量は約1,500 万m3で、香川県の満濃池などとともに日本を代表するため池です。

 明治時代になると、矢作川では明治用水(1879年)と枝下用水(1884年)が、豊川では牟呂用水(1887年)が、木曽川では佐屋川用水(1900 年)が開削され、現在の用水の骨格がほぼできあがりました。

 昔は、食料が不足していたので、お米を育てるのになくてはならない水は、特に貴重なものであり、川から水を取り、水路などを建設するため、大変な努力が重ねられてきました。

 今のように大きな機械がなかった昔は、命がけで工事が行われたこともありました。

 農家を始めとする人々が、大切な川の水を守り、利用し、育んできたお陰で、今日、私たちは農業用水だけでなく、水道用水や工業用水としても川の水を利用できているといえるのではないでしょうか。

牟呂用水と松原用水

 松原用水は1567年に開削された愛知県で最も古い大規模な農業用水です。

 その後、三河湾の奧の干潟に新しくつくった水田へ豊川から水を導くため、明治20年頃、牟呂用水の建設が始まろうとしていました。「松原用水之義ニ付願書」は300 年以上前の室町時代からずっと、同じ豊川から取水していた松原用水が、牟呂用水ができると水が取れなくなるのではないかと心配になり、愛知県知事あてに願い出た文書です。「御請書」は、松原用水の取水には迷惑をかけないように牟呂用水の水門などの操作をすると書かれたもので、明治23 年に愛知県知事あてに提出されました。

なお、牟呂用水と松原用水の取入口は、豊川用水事業の時に統合され、現在では牟呂松原頭首工として一緒に取水が行われています。

宮田用水と木津用水

 古くは平安時代から耕作されていたこの地域の水田では、濃尾平野を枝状に流れる小さな川を利用して農業用水が取られていました。江戸時代になり、徳川家康の命により、木曽川の左岸に「御囲堤」がつくられたため、これらの小さな川が締め切られ、木曽川の水が流れ込まなくなったので、1608 年、今の江南市と一宮市のあたりにそれぞれ杁(木曽川から取水するための石組みの水門)がつくられ、同時に水路も掘られ、宮田用水の原形ができあがりました。

 木津用水は、宮田用水取入口の上流部の犬山城下から木曽川の水を取り入れるため、1648年に開削された用水です。明治時代には、舟で名古屋市に物資を運ぶため、木曽川と庄内川を結ぶ水路としても利用されていました。

 木曽川の川底が洪水などのたびに変化し、水が取りにくくなったため、宮田用水と木津用水の取入口は、昭和37年に完成した犬山頭首工に合口(いくつかの取入口を一緒にして水を安定的に取ること)され、途中までは同じ水路を利用し、それぞれの用水の地域へと水が運ばれていくようになりました。

【宮田用水】